米・イスラエルがイランを攻撃し始めてから数日後、私は毎朝、西側メディアと中東メディアの双方から情報を収集し、それらがどのように日本経済に影響するかを調べ、分析することが日課となりました。
以前も別の記事で書きましたが、最初は珈琲豆の相場を占うために為替を気にし始めたのが世界経済を学ぶきっかけとなりました。
しかし、簡単には世の流れを予測することもできず、結局は今なぜこういったことが起こるのかの因果関係を丁寧に見ていくことになるのです。
例えば、今回の戦争をきっかけに平常時にホルムズ海峡を通っていた原油の量、原油の性質の違いやナフサにも軽質や重質があって完成品が異なることや性質上長期保存できないこと、それ故に国家備蓄の設定がなかったこと等、あらゆる「知らなかったこと」を知ることになります。
イランインターナショナルやアルジャジーラ等の中東側のメディアを見ているとトランプの発言とイラン側の反応の食い違いは常で、日を増すごとに減っていく世界の原油備蓄等の数字と主要人物の言葉を追いかけるうちに、気づけば話は経済の枠を超えてもっと大きな問いに辿り着いたのです。
「今、世界はなぜこうなっているのか」
という問いです。
人間は欲を持たなければここまで発展してこなかった。これは間違いないと思います。
狩猟採集の時代から、もっと豊かになりたい、もっと知りたい、もっと遠くへ行きたいという探究心(欲)が、文明を前に進める原動力であったと思います。
しかし、同じ欲でも時には争いの種にもなるのです。
誰かの豊かさが誰かの収奪の上に成り立っていることを歴史の多くが示しています。
私は中東で何か問題があるたびにいつも懐疑的でした。
本当に?そんな理由で?と。
根差した問題はとても複雑なのであろうと想像することはできますが、表面に浮き出ている事情では何ら察することもはもちろん、一端すら正しく理解することもできませんでした。
ホルムズ海峡を巡る今回の戦争の根を辿っていくと、当然のように大国と石油という資源の関係に行き着きます。
そしてその石油を巡る関係を歴史的に遡ると、かつてイギリスが中東に行ったことや、その後にアメリカとサウジアラビアがどうして今の関係を構築したか等、中東の国々が大国の利益に振り回されてきた歴史を垣間見るのです。
イランを軸に見てみれば、その代表的なものが1953年にアメリカとイギリスがイランの民主的な政権を打倒したという出来事です。
当時のイランの指導者が自国の資源を自国のために使おうとしました。
つまり、石油で得た益を国民のために使おうとしたのです。
至極真っ当なことであるとしか思えないのですが、これまでその石油利権に恩恵を受けていた大国はそれらを許しませんでした。
自国の資源を自国のために使おうとしたイランの指導者が、外国の都合で排除された。その記憶は70年経った今も、イランという国の根底に流れているのだと思います。
実際にこの軍事クーデターへの関与を米CIAは公式に認め、英MI6の関与も広く知られています。
サウジアラビアもまた、クーデターを恐れて自国の軍を強くしすぎず、安全保障をアメリカに委ねるという選択をした国でした。
内部の反乱を恐れるあまり、外部の保護に頼る。その代償として石油はドルで取引され、アメリカの覇権を支える仕組みの一部になりました。
これがペトロダラー(ドルの基軸通貨)の始まりです。
中東の国々の多くは、こうして大国の都合に組み込まれ、その都合が変わるたびに翻弄されてきました。
利用され、邪魔になれば切り捨てられる。その繰り返しが、今の混乱の土台にあるのだと思います。
皆が悪と記憶しているサダムフセインも当初はアメリカから支援を受けていた存在です。
紛争の火種を見つけては都合が良い方を支援する。といったことを平然と行ってきたのです。
こうして、欧米は他国の資源や労働力を取り込むことで大きくなりましたが、その果実を吸い尽くした後、自国の産業は空洞化し、格差が広がり、現代のような課題を持つようになったのです。
そして、その責任を自らの内側に見つめずに、外に敵を作ることで目を逸らすのです。
共産主義、テロリズム、ならず者国家、そして今は中国やロシア。
仮想敵を作り続けなければ自国の課題から生じる国民の不満を誤魔化すことができない時点で緩やかに破綻の道を歩んでいるように思えてなりません。
これまで世界秩序は、民主主義を土台に資本主義の上で国際法を整え、自由主義を掲げながら保たれてきたました。
この秩序は、かつては立派な理念を持っていたように思います。
しかし、その理念を守るためのコストは、実際には誰かが負担し続けなければならないものだったということです。
軍事力で航路を守り、基軸通貨を管理し、同盟国に安全を提供する。
その負担は次第に、理念そのものを支えきれないほど重くなっていきました。
これをアメリカ一国の責任と叫ぶのは容易いですが、私はそうでもないと思っています。
ある意味、トランプが同盟国に負担を求めることは素直なことだとも思うのです。
アメリカ一国では支えきれなくなり混乱する世界秩序の片隅でグローバルサウスの国々が欧米の枠組みから距離を置き始めているのは、至極自然な流れだと思えます。
大国の都合で自国を滅びの道に向かわせることはできませんから。
ここで立ち止まって考えたいのは、「私たちは人間である」ということの可能性についてです。
情報を共有する手段など何もなかった昔から、地球の反対側で互いの存在さえ知らなかったはずの人々が、なぜか同じような教えに辿り着いているのです。
それは、
自分が嫌なことを人にするな。
自身が人からしてもらいたいことを人にもせよ。
蓄えるよりも分け与えよ。
命は尊い。
こうした教えは、仏教にもキリスト教にも儒教にもイスラム教にも、形を変えて共通して存在しています。
これは偶然ではないと考えているのです。
人は人と協力しあうことで発展をしてきた生き物です。
当然ながら、その集団の中で意見が割れたり誰かが不遇な立ち回りをすることがあったりと生きていると様々なことがあります。
世界の離れた地で同じような教えがあるのは、人と人が共生する上で必要となる知恵や心得が生んだものなのだと思います。
宗教とは、人が共生する知恵を人々が善良な心を持って受け入れやすいように多少のエンタメ性を含めたストーリーとして語り継いだものだったのではないかと考えているのです。
理性によって欲を制御し、皆が平等に生きられるようにという願い。
それが祈りという行為の根源なのだと思います。
その知恵であった宗教に利用価値を見出し、権力と結びつけた一部の人が世界のあちらこちらで争いごとを作り出したのだと思います。
人の命を尊ぶ教えが人殺しの原因となることなど矛盾でしかないからです。
世界が平和で平等であるようにと国際秩序を掲げ、それを尊重するにも維持するにもコストがかかります。
本当ならば、誰もが分け隔てすることなく隣人に手を差し伸べ、自分のパンを分け与えることができるのなら、なんのコストも必要とせずに秩序は守られますが、ここに1人でも「利己的な欲」で暴力を振るう人がいるとそれらは崩れ落ちるのです。
相手が武装したらこちらも武装する。
私たちはどこかで立ち止まらないといけないとずっと言い続けて今日を迎えているのだと思います。
一つ希望があるとしたら、これからAIが発達していけば、秩序を維持するコストそのものは下がっていく可能性があります。
しかし、同時に攻撃のコストも下げていっていることを昨今の戦争で目の当たりにしています。
そしてAI自体が大量の電力や希少資源を必要とすることに因む環境破壊や人間の本質をも破壊するものでもあるように捉えることもできます。
じゃあ、テクノロジーなんて捨てて地球に負担がかからないように10億人規模まで人口を減らしましょう。なんてこともできませんから、我々は発展することでしか生き残ることはできないと思います。
今後、言語の壁は完全に取り除かれるとの予測が話されていることは有名ですが、言語に壁がなくなるとことで同時に各国の常識が徐々に壊れていき、文化を変容させることにもつながるでしょう。
時間をかけてゆっくりと歪むことはある意味健全な文化の変容とも捉えられるのですが、これがあまりに早いと混乱につながると思います。
もちろん、悪いことばかりではありません。
言語の壁を超えて話し合うことで互いを知り、敬意を持って相手を思いやることにつながることだってあるでしょう。
つまり、技術そのものに善悪はなく、それを使う側の心によって、結果はまったく違う方向に転ぶということなのです。
だからこそ、私は経済合理性だけでこのまま様々なものが消えていって良いのだろうか?と不安を感じ、非効率ながらも良いものを作りたいと励む方々と共に歩むことを心に決めているのです。
どれだけ便利になっても人は次から次へと不満を生み、自分と他人を比べては嘆くのだと思います。
心の豊かさというのは決して金銭的な豊かさとイコールになることではないと私たちは知っているはずなのに。
イラン攻撃から110日間、数字を追いながら見えてきたのは、結局すべての問題の先に「誰かの命と生活」があるという、ごく単純な事実でした。
インドでガスが届かず薪で料理をする家族も、アメリカでガソリン代に苦しむ労働者も、レバノンで空爆に怯える人々も、求めているものは同じです。
命が尊く、分け合うことが豊かさであるという、最も古くて、最も新しい知恵に、もう一度立ち返るべき時が来ていると思います。