※この記事を書き始めたのは3月下旬です。
最近、私の心の中で「ある欲求」が減退していることに気がつきました。
それは、「遠くへ行きたい」、「知らない土地へ行きたい」という探究心です。
元々、1年に1回は生産者さんの元に行くことを目標としているのですが、今年はリニューアル工事に予算を使ってしまったので控えているというのも理由の一つではあります。
ただ、それは心理障壁というより「事情」ですから、気持ちとは切り離して考えられるものです。
新規事業など山積みのタスクに追われて忙しかったから?
いや、むしろそういった時の方が逃避欲が高まります。
なんでだろう?まぁ、歳も取ったからね。などと自問自答をしながら色々と考えていたら一つの仮定に行き当たりました。
今日は、そんな自覚のない潜在意識を探求してみたいと思います。
要素分解をして違和感の正体を探る
私個人の想いや状態というのは、データの世界では1サンプルとしかならないのですが、若い頃にマーケティングやプロダクトの設計などに携わった経験から、おおよその「勘」というものが機能することがあります。
だから、こういった正体不明の感情に出会った時、「なぜ?」と深掘りをする癖がついているのです。
ここから先はあくまで仮説ですから実態とかけ離れているかもしれません。
そういった前提で読み進めてくださいね。
こういった違和感に出会った時、自分の深層心理を探求すると共に身の回りの方にも様々な話し口でこの違和感を尋ねます。
暇な時間帯に雑多におしゃべりする常連さんやスタッフに家族、今の私の社会はとても小さいのでそんな程度のサンプリングしかできないので偏ってはいます。
しかし、そんな小さな社会の中でも同じように旅行などの欲求が落ちている方がチラホラいらっしゃるのです。
でも、それは「言われてみれば。」といったレベルなので顕在化しているものではなかったりします。
そこであらゆる仮説を立てるのです。
・物価高騰で可処分所得が減っているから?
・日本の観光地はどこも外国人で混んでいてインバウンド価格で高くなっているから?
・円安で海外が高いから?
・海外の情勢が不安定だから?
といった具合にです。
次に感情の要素を紐解いていきます。
なぜ、欲求がないのか。
それは、満たされているからなのだろうか。
満たされているとするならば、どういった体験がその欲求を代替しているのだろうか。
そこで、1つ面白い可能性に辿り着くのです。
それが「SNS等の情報でお腹いっぱいになっている」可能性です。
言語の壁が作っていた情報の壁
最近、SNSであることに気がつきました。
少し前から海外の投稿が発見(おすすめ)やフィードに頻繁に表示されるようになっていることです。
思い返してみてください。
以前は、あえて海外の情報を取りに行く方以外は、日本の投稿が発見(おすすめ)やフィードに上がってきていましたよね?
もし仮にアルゴリズムは本質的に変わっておらず、今も過去も国やエリアで情報が仕訳されているというより興味の枠で仕訳されているものであったとしても、1つ思い当たるものがあるのです。
それは、言語の壁がなくなりつつあることです。
今、日本のスタートアップの会社がAI通訳サービスを提供し始めていますが、今年中には同時通訳者と同じレベルでレスポンスが可能になると見込んでいらっしゃいます。
そう聞いて、「うそだー、早すぎるよ。」とはもう皆さん思いませんよね?
なんなら、「え、まだないの?」って思うレベルで近年のテックの技術向上は目まぐるしいのです。
最近は、映像に勝手に字幕が出ていたり、少し前まではトンチンカンな翻訳だったものが、今は文脈まで読み取ってかなり適切なものになってきているように感じます。
これが、リアルタイムで音声で翻訳され同時通訳のようなレベルになるまでを今年中には達成すると言っているわけです。
もちろん、コンテキストの理解を元に翻訳の内容をその人のキャラクターに合わせて最適化する。といったようなプロの通訳さんのような芸当はありませんが、そうではないフラットな翻訳においては、もうAIで事足りてしまう世界が目前に迫っているのです。
そんなことを背景にしているのか、SNSで海外の日常をよく目にするようになったことで「わざわざ行きたい」と思わなくなっていることもあり得るのかも知れません。
言葉の壁が壊れるリスクについて
この言語の壁が壊れることは良いことのように感じますが、良くないことも多分にあると思います。
例えば、文化の壁が壊れやすくなると考えられます。
SNSで既に簡単に海外からの発信にリーチすることができるわけですが、AIのアルゴリズムで興味の範囲で言語や国を隔てずに情報が流れることで、世界中で気の合う人と繋がれるのかもしれません。
しかし、同時に無自覚に地球の反対側の情報が自分の中に流れることにもなるのです。
そのことに危険性を感じる方は少ないと思いますが、私はこれが日本らしさを壊すことにつながると感じています。
日本は、比較的「文化や国民性の保存状態が良い」国なんですが、それは島国であるが故に船か飛行機でなければ物理的に来れないということもあれば、言語が特殊なので、なかなか侵食できなかったということもあります。
「ニホンゴ、ムズカシイデス。」
そう、最近ではAIが校閲までしてくれるほど日本語が自然に使えるようになりましたが、少し前までは海外の方が一生懸命に翻訳を試みてもどこかおかしい日本語でした。
よっぽど日本愛がなければ日本語を完璧に話すなんて方はいらっしゃらないのではないか?と思うほどに言語が大きく西洋と異なっているのです。
だからか、わざわざ日本の言語を話そうとしてくださる海外の方は、日本が好きで日本の文化に敬意を持ってくれている方が多いと感じるのです。
なぜなら、言葉の前に文化背景を知らなければ完璧には話せないからです。
恐らく西洋の言葉をお話しになる方なら共感してくださる方も多いと思いますが、我々日本人が英語等の西洋の言葉を学び始めた初期の頃は日本語をそのまま海外の言葉に置き換えようとしますよね。
しかし、実際に海外に出て生活をしてみると文化背景の違いなどで言葉から想起するイメージが違ったり、根本的な感情の違いから表現が異なる。といったように言葉の壁よりも「文化の壁」に行き当たります。
例えば、イタリア語で「私があなたのところへ行く」と言うときに使うのはandare(行く)ではなく、venire(来る)を使います。
視点による使い分けの違いなのですが、このように言葉は「感情」や「イメージ」を閉じ込めておく箱のようなものなので、私がイタリアで生活をする上でvenireはやはり「おいで」のような寄せるイメージなので、「私があなたの元に向かうよ」といった寄せるような「行く」のニュアンスで箱に感情が収められているのです。
私はこのイタリア語のvenireという動詞がとても人懐っこく愛情を感じて好きなのです。
何が言いたいかと言うと、つまりは言葉の箱の中に入っているものが人によって違うということです。
人によって「できる」のレベル感が全く違うのも経験値の違いからくるものですが、この箱に入っている感情や度合いを示す物差しが異なることでトラブルが発生したりするのです。
私が誇りに思っている部分なのですが、日本人は素晴らしく、郷に入りては郷に従うという文化を持っていますから、相手方を理解しようと敬意を持って接します。
だから相手の文化に敬意をもって理解をし、取り入れることができるのです。
この姿勢に好意をもった海外の方々が鏡のように日本での生活においてもその姿勢を実践してくださっているのかな?と思います。
しかし、全ての人が日本に敬意を持って来日されるわけではありません。
言葉の障壁がAI等の発達によって取り除かれた世の中というのは、日本が好きというモチベーションがなくとも経済合理性等を理由に日本の市場に参加しやすくなりますから、これまでのように高いリスペクトを持った方々とは異なり自国の常識や都合を持ち込んで生活する人も出てくると思います。
そうすると文化が壊れていくことに繋がったり、常識が多様化して「良心」や「良識」を元に共生していくことが難しくなっていくのだと思います。
想像してみてください。
朝ごはんといえば?
昭和後半の生まれの私たちだったら、「ご飯と味噌汁と焼き魚」もしくは少し小洒落ていて「トーストとベーコンエッグ」です。
既にこういったイメージの纏まりみたいなものが壊れていっていることに気がついていますか?
今は、健康志向な人なら「スムージー」や「アサイーボウル」と言うかもしれませんし、「シリアル」という方も大勢いると思います。
つまり、多様な文化を受け入れることによって、従来の「常識」というのは壊れていくことになります。
今までSNSで私たちが偶然(アルゴリズムだけど)発見して新たに出会った情報というものが、日本国内のものだけではなく、日常的に海外のものが流れ始めているわけです。
となると、少しずつ海外のスタンダードも日本に同じ時間軸で流れるようになるわけですから、認識がそろっていくのは国を隔てずに起こることになっていきます。
日本らしさが危うい?
これから日本はインバウンドがさらに盛んになっていくことが予想されます。
彼らが求めるのは「日本らしさ」ですが、東京では海外資本の方が儲かれば良いと思ってやっているのだろうか?と思えるほどに歪な「わざとらしいJAPAN」が増えてきているように感じます。
この光景を見て、今から25年ほど前に訪れたパリのエッフェル塔の前で「PARIS」と書いているTシャツを売る露店がひしめき合っていたことを思い出しました。
住んでいたイタリアのフィレンツェにも似たような光景がありましたが、私はそういった「商業主義的な雰囲気」に違和感を覚えていました。それでも売れるから存在したのだろうと思います。
近年では行政に規制されてイタリアのサンロレンツォ教会の周りにひしめき合っていた屋台はほとんど姿を消していました。
パリも同様にそういった土産物屋が激減していたように思います。
街の景観を守るためにおこなったことのようですが、違和感を覚え歪に見えていたにも関わらず、それはそれで寂しいとも思ったのです。
矛盾していますよね。
保守的で変わらない日本と揶揄されてきましたが、おかげであらゆることの保存状態が良い日本。
これまで言語の壁に守られてきていましたが、これからはその一つの防御壁が取り払われます。
日本が魅力ある日本であり続けるために我々は何に気をつけながら生活をすれば良いのか、そういった視点を持つ方が増えると日本はより魅力的な国になるのかもしれませんね。